毛利勝永


戦国最終決戦とも言うべき大坂夏の陣・冬の陣で活躍した武将。

大坂五人衆の一人。

関が原の戦いに決した西軍・東軍の争いの際に

勝永は父・勝信に属して西軍だった為に、改易され土佐の山内家預かり処分となる。

が、豊臣家から大坂に招かれると土佐を脱出。大坂に入り大坂夏の陣に参戦したものの

特に活躍なく豊臣・徳川家との間で和睦が結ばれた。

続いての大坂冬の陣では打って変わって大活躍。

最終局面たる天王寺付近での戦いでは、出撃した毛利隊4千は

敵大将・徳川家康の首をあげるべく徳川勢に突っ込むと

本多忠朝、小笠原秀政、浅野長重、秋田実季、榊原康勝、安藤直次、六郷政乗、仙石忠政

諏訪忠恒、松下重綱、酒井家次、本多忠純ら徳川諸隊を蹴散らし

徳川家康のいる本陣に突入したという。

だが残念な事に、目的の家康は先に突撃していた真田幸村(信繋)に追い立てられ

逃走した後であり、その後、真田隊が力尽き壊滅した為に大阪城へと撤退。

豊臣秀頼と最後を共にし自害して生涯を終えた。





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