豊臣家五奉行の一人。 最初は織田信長の長男・信忠の家臣だったが、本能寺の変が起こると 信忠の子・秀信を連れて京都を脱出。その後は豊臣秀吉に仕え 朝廷・寺社関連の仕事を担当していたという。 関が原の戦いでは表向きは西軍側と立ち位置を表明していたが 事実上の東軍よりの中立といった立ち位置を貫き、他の五奉行が悲惨な末路を辿る中 唯一、領土も減らされず床の上での死を全う出来た。